一般の人々がマラソン大会をはじめ、カヌー競技、自転車競技など簡単に取り組むことが出来、仲間と共通の汗を流し、生活を豊かにする身近な手段としてスポーツを楽しむようになったのは、ごく近年のことです。これらのスポーツが一般的になったのは、人類の歴史の中でも特に第二次世界戦後、しかも最近の数十年間に凝縮されるでしょう。又、ジェンダー的な視点で見ても、1928年第9回アムステルダムオリンピック大会から女子陸上競技が採用されたことからわかるように、女子がスポーツ大会に参加出来るようになってからわずか100年弱でしかありません。
私は個人的に過去およそ30年間にわたり国内外のマラソン大会、ドラゴン・ボート競技大会などの企画・運営に携わり、またロードレーサーで仲間と各地のサイクリング・コースを走り回った経験から、スポーツを文化として捉えることに興味を持つようになりました。近年には伝統的なスポーツだけでなく、各地の伝統的、宗教的そして儀礼的行事を基盤とする新しいジャンルのスポーツも数多く生まれ、発展しています。各地の伝統的行事などが遊びの中から地域のスポーツとして成立し、また地域を超え、国境を越えてオリンピック競技など世界的な現代スポーツとして発展していく過程と、「ニュー・スポーツ」と呼ばれる競技種目が近年これほど急速に発展してきた原因を、メディアを含む現代の情報化社会と高齢化社会を支える健康面からの関連で考察してみたいと思います。
歴史的視点からみたスポーツ文化の形成・定義
sportという単語は江戸時代後期の英和辞典に見られるが、スポーツという日本語が定着したのは大正年間のことだと言われています。Sportの語源は古フランス語のdesport「気晴らしをする、遊ぶ、楽しむ」で、その「遊ぶ」という原義は現在も保持されていますが、意味するものは時代とともに変化しています。デスポルトは、本来「運び去る、運搬する」の意で、転じて、精神的な次元の移動・転換、やがて「義務からの気分転換、元気の回復」仕事や家事といった「日々の生活から離れる」気晴らしや遊び、楽しみ、休養といった要素を指すといいます。17世紀~18世紀には、sportは新興階級の地主ジェントリー(いわゆる狭義のジェントルマン)の特権的遊びであるキツネ狩り等の狩猟を第一に指しました。しかし、19世紀に入ると「運動競技による人格形成論」が台頭してきます。Sportとは、スポーツ専門組織(競技連盟など)によって整備されたルールに則って運営され、試合結果を記録として比較し、その更新を目的とする運動競技を第一に意味するようになりました。※1 又、競技として行うものはチャンピオンスポーツ、そして遊戯的な要素を持つものをレクレーションスポーツと呼ぶこともあります。最初に競技連盟が成立したのは陸協競技であったため、陸上競技は全ての競技スポーツの第一位とされており、陸上競技場はメインスタジアムと呼ばれています。※2
1896年にアテネで始まった近代的国際オリンピック大会は、古代オリンピック競技の「復興」ではなく、近代の文化的発明品としてのスポーツの為の祭典でした。それは又、スポーツの理想化の進展を示す祭典でもあったといいます。スポーツは今や、家柄や身分によってではなく、個人の能力と業績によって成功することが出来るという近代社会の理想を象徴する活動となりました。勿論、人々の能力や業績は平等な条件のもとで競わなければなりません。人々は自らの意思でこの競争に参加し、自らの責任において様々な決定を下し、自らの力で目標に挑戦する。このように、スポーツは若者の人格形成、集団的連帯感や責任感の養成に大きな役割を果たすものと考えられるようになりました。※3
※1:スポーツの定義、infogogo.comより抜粋
※2:スポーツinfogoto.com 情報の開設、意味、定義、説明記事より
※3:竹内洋・回付優子訳『パブリック・スクールの社会学』(世界思想社、1996年)
近代スポーツの伝播と普及
少々乱暴な言い方かもしれないが、近代スポーツではその起源の多くを、イギリスをはじめとしたヨーロッパに求めることが出来るようです。それらは、もともと子供達の遊戯や祭事に関係したものが大多数でしたが、19世紀から20世紀にかけてイギリスの貴族階級によって今日我々が知るところのスポーツへ制度化、組織化されていったといえます。代表例としては、サッカー、野球、テニス、陸上競技等が近代スポーツの代表としてあげられます。
勿論、スポーツの源流が全てイギリスにあった訳ではありませんが、イギリス以外の異文化のゲームもイギリス人によって近代的なスポーツへと変身したケースが多くあります。ボクシングやレスリングの元になるようなものは世界各地で行われていましたし、ポロの起源は中央アジア、バドミントンはインドから伝えられました。このようなイギリス以外で生まれたものであっても、例外なく西洋文明というフィルターを通って、初めて近代スポーツとしての体裁を整えていきました。
ローカル化
スポーツが世界中に普及し、それぞれの社会に受け入れられるようになると、それぞれの地域において土着化=ローカル化が始まります。スポーツを取り巻く社会的・文化的要因によって、スポーツの楽しみ方やスポーツに関わるいろいろな制度や組織、そして時にはスポーツそのものまでもが大きく変容することもあります。ローカル化は、アメリカの「アメリカン・フットボール」のように、ルールや試合形態をほとんど完璧なまでに変えてしまい、全く異なるスポーツを生み出した例もあります。又、ローカル化に関しては日本の柔道やインド・パキスタンのフィールド・ホッケー、アメリカ・カナダのラクロス等のように、近代スポーツに変容し、世界的なスポーツとなってUターンしたものもあります。いわゆる「ニュー・スポーツ」の誕生になるのですが、このようなスポーツが、発祥の地でどのように受容されているのかも興味深いと言えます。
「ニュー・スポーツ」の定義
「ニュー・スポーツ」とは、考案されたのが比較的新しいスポーツ、外国での歴史は古いが発祥国以外では比較的新しいスポーツ、起源は古いが競技として整備されたのが比較的新しいスポーツ等と定義されているようです。例としては、1930年第にアメリカで誕生し、1996年アトランタ・オリンピックの正式種目となったビーチ・バレー、戦後北海道で考案され、1970年代から高齢者のスポーツとして急速に広まったゲートボール、南アジアで数千年の歴史を持ち、1979年に日本に紹介されたカバディなどがあげられます。※4 また、はるか紀元前277年の中国に起源を持つといわれるドラゴン・ボート競技もその一つと言えるでしょう。
A・グットマンは、現代のスポーツの特徴は、「世俗化」、「競争の機会と条件の平等化」、「役割の専門化」、「合理化」、「官僚的組織化」、「記録万能主義」であると述べています。※5 彼はまずスポーツを身体的、競争的な組織化された遊びと定義します。我々に思い浮かぶスポーツとは、身体を使ってルールに従い楽しく競い合う活動だからです。野球、テニスなど我々が親しんでいる近代スポーツは宗教儀礼として行われている訳ではないので、近代以前のスポーツと違って「世俗化」されているという訳です。又、参加する機会がなるべく広く、競技の条件が全ての競技者において同等であることは近代スポーツの平等精神からくるという「平等化」。他には競技種目やポジションが多様に細分化されて、プロも出現している「役割の専門化」。普遍的なルールが設定され設備も標準化されていることである「合理化」。統括団体が発達していることは「官僚制的組織化」。統計などの数字と統計的な記録が重視される「数量化と記録の追求」を近代スポーツの特徴として挙げています。※6 確かに、我々が企画・運営し、そして参加する様々なスポーツ大会はこのような土壌の上に成り立っていると思われます。
※4:『スポーツと現代アメリカ』清水哲男訳、(TBSブリタニカ、1981)
※5:『スポーツと現代アメリカ』清水哲男訳、(TBSブリタニカ、1981)
※6:平井肇『<ポストモダンのスポーツ>スポーツ文化を学ぶ人の為に』、(世界思想社、1999年)
スポーツ本来のあるべき姿は「遊び」
1938年に出版された「ホモ・ルーデンス」の中で、オランダの文化史家・ヨハン・ホイジンガ―は、人間を何よりもまず「遊ぶ」存在ととらえ、「人間の文化は遊びの中で遊びとして発生し、展開してきた」ことを論じました。彼によれば、文化は「遊びの形式の中で」形成されてきたのであり、芸術にせよ科学にせよ、人間の文化は本来「遊ばれる」ものであるというのです。
しかし、19世紀以降、ほとんど全ての文化領域において「遊びの衰退」が著しくなっていて、スポーツも例外ではありません。19世紀以降のスポーツ制度の発達を見ると、それは競技がだんだん真面目なものとして受け取られる方向に向かっています。規則は次第に厳しく、細かくなる。記録は伸びていき、達成目標は高くなり、プロの競技者とアマチュアの愛好家との分離も明確になります。こうしてスポーツの中から、遊びの自発性、気楽さ、のびやかさが失われ、記録や勝敗へのこだわり、国家や民族への思い入れなども強まり、心のゆとりがなくなってフェアプレーの理想も実現されにくくなり、スポーツは遊びの領域から去っていきました。
スポーツの変容「スポーツ・フォー・オール」の主張と運動
このような近代スポーツに対する批判から業績や勝敗に価値を置く競技スポーツに対して、誰もが生涯にわたって楽しめる穏やかなソフト・スポーツの開発や、フォーク・スポーツの再評価、高齢者やハンディを背負った人々なども含めて万人のスポーツ権を尊重する「スポーツ・フォア・オール」の主張と運動などが盛んになってきました。様々の新しい試みや工夫によってスポーツの中に「遊び」の要素を回復していくこと、或いはそれを新たな形式で組み込んでいくことは、我々のスポーツ文化を豊かにしていくための一つの有力な方向だと思われます。ホイジンガ―流に言うならば、「真の文化は何らかの遊びの内容を持たずには存続していくことは出来ない」※7 ということに尽きると思います。ジェンダー・障害者スポーツ等の視点からスポーツを捉えなおすことは、男性主導で展開してきた近代スポーツを再検討することであり、それはそのまま今後のスポーツの多様化と深く結びついていると思われます。※8
※7:井上俊『スポーツ文化を学ぶ人のために』(世界思想社、1999年)p.13-14
※8:伊藤公雄『<現代スポーツ文化>「スポーツ文化を学ぶ人の為に』(世界思想社、1999年)
現在のマラソンブーム
全国各地で大小様々なマラソン大会が開催され、多くの市民ランナーがカラフルなジョギング・ウェアやジョギング・シューズに身を包みレースを楽しんでいる光景は珍しくなくなりました。このようなジョギング・ブームの背景には、シューズさえあれば時間や場所を選ばずにだれでも気軽に楽しめることや、近年の健康志向などがあるのでしょう。まさに、前述の「スポーツ・フォー・オール」の主張と運動の賜物と言えるかもしれません。
私も数十年前、近所のおじさんに誘われて近くの公園一周2キロのジョギングから始めました。日常の生活から一歩距離を置いて心身のリラックスに結び付けられる手段としてのジョギングにすっかりはまってしまい、5キロ、10キロ、ハーフ、そしてついには国内外の多くのフルマラソンに挑戦するまでにのめり込んでしまいました。仕事の出張時には国内、海外を問わずジョギング・シューズとランニング・ウェアを必ず持参し、ホテル周辺を走り回りました。レース参加時には、フィニッシュまでの苦しさに堪え、なぜひたすらストイックに走ることを追求するのだろうかと自問自答する瞬間、瞬間でもありましたが、タイムはともかく完走した時の達成感は日常では決して味わえない、何事にも代え難い充実した気分にさせてくれるものです。また、大会開催地による地域を挙げての受け入れ準備、走路の景観を眺めながら(実際にはそれほどの余裕はないのですが・・・)の疾走、沿道の人々の暖かい応援、そして地域の美味しい食べ物などなど、走ることで感じられる地域の人々の暖かさやランナー同士のコミュニケーションは、日常生活に戻った際のエネルギー供給源でもあります。県外や海外から訪れるランナーによる地元住民との交流を通じた地域活性化や経済効果も現在のマラソンブームに大きく貢献している要因の一つです。
無理なく、コンディションを保ちながら、健康的に走り続けることが出来れば、マラソンの効果や喜びは計り知れないほど大きいものとなるでしょう。記録や勝敗のこだわりは少し横に置いて、遊びの領域で日常的にジョギングやマラソンを楽しむことは自分の人生をより豊かにしてくれると確信します。