代表挨拶message

関西マラソン協会(Kansai Marathon Association)設立に際して

関西マラソン協会(Kansai Marathon Association)設立に際して

週末には老若男女問わずカラフルなシューズとウェアに身を包み、近隣の公園、街路などをジョギングしている人たちを多く見かけます。このようなジョギングブームの背景には、シューズさえあれば時間や場所を選ばず誰でも気軽に楽しむ ことができることや、近年の健康志向や節約志向などがあるのでしょう。

市民マラソンは、アメリカ最古の都市公園であるボストン・コモンをスタート&ゴールとして、1897年に開催されたボストンマラソンに端を発すると言われています。また日本で初めて行われたマラソンは、1909年3月に神戸で開催された「マラソン大競争」に遡るといいます。
今では日本全国でフルマラソン、ハーフマラソン、10キロや5キロファミリーマラソンなど、さらには車いすマラソンなど様々なマラソン大会が開催され多くのランナーが楽しんでいます。

このようなブームの火付け役とも言えるのは、2008年に始まった東京マラソンだと言われています。回を重ねる毎に応募者は増え、定員の10倍以上30万人を超える応募があるようです。その後大阪、神戸、京都など関西を中心にした 定員2~3万人クラスの大型大会も開催されるようになり、マラソンブームは一段と熱を帯びるようになりました。
一方、地方各地で開催される市民マラソン大会は、地元住民との触れ合いなど手作り感あふれる、大都市には見られない魅力でアットホームなイベントとして人気を博しています。県外から訪れるランナーによる経済効果や地域活性化に貢献することで、町おこしとしての重要な役割を担い、大会数も増加傾向にあります。

しかし、笹川スポーツ財団の「スポーツライフに関する調査報告書(1998~2018)」によると、ランニング人口の推計は2012年の1,009万人をピークに、2018年は964万人と減少傾向をたどっています。
大手スポーツメーカーのデサント(本社・大阪市)の調査では、ランニングを始めて6カ月以上継続できないランナーは7割に達するといいます。やめる理由はランナーの個人的な事情によりますが、多くの市民ランナーにとって魅力のあるマラソン大会が失われているのではないでしょうか。

文化も生き物と同じで、社会状況に応じた新鮮な血液を供給しなければ途絶えてしまいます。
関西マラソン協会は、『新しい時代に即した組織の構築』、『マラソン文化の保護・継承』を、さらに発展させる努力を積極的に推進する時だという認識の下、設立いたしました。マラソンへの関心が一過性のブームとして終わることなく、健康づくりに必要な意識として定着し、地域振興、さらにはスポーツを通じた社会貢献やSDGs(持続的開発目標)の推進へと繋がるように努めることが最大の目的であります。

2020年12月15日
関西マラソン協会理事長
菖蒲 誠

スポーツと生きがい

一般社団法人 関西マラソン協会理事長
菖蒲 誠

一般の人々がマラソン大会をはじめ、カヌー競技、自転車競技など簡単に取り組むことが出来、仲間と共通の汗を流し、生活を豊かにする身近な手段としてスポーツを楽しむようになったのは、ごく近年のことです。これらのスポーツが一般的になったのは、人類の歴史の中でも特に第二次世界戦後、しかも最近の数十年間に凝縮されるでしょう。又、ジェンダー的な視点で見ても、1928年第9回アムステルダムオリンピック大会から女子陸上競技が採用されたことからわかるように、女子がスポーツ大会に参加出来るようになってからわずか100年弱でしかありません。


私は個人的に過去およそ30年間にわたり国内外のマラソン大会、ドラゴン・ボート競技大会などの企画・運営に携わり、またロードレーサーで仲間と各地のサイクリング・コースを走り回った経験から、スポーツを文化として捉えることに興味を持つようになりました。近年には伝統的なスポーツだけでなく、各地の伝統的、宗教的そして儀礼的行事を基盤とする新しいジャンルのスポーツも数多く生まれ、発展しています。各地の伝統的行事などが遊びの中から地域のスポーツとして成立し、また地域を超え、国境を越えてオリンピック競技など世界的な現代スポーツとして発展していく過程と、「ニュー・スポーツ」と呼ばれる競技種目が近年これほど急速に発展してきた原因を、メディアを含む現代の情報化社会と高齢化社会を支える健康面からの関連で考察してみたいと思います。

歴史的視点からみたスポーツ文化の形成・定義


sportという単語は江戸時代後期の英和辞典に見られるが、スポーツという日本語が定着したのは大正年間のことだと言われています。Sportの語源は古フランス語のdesport「気晴らしをする、遊ぶ、楽しむ」で、その「遊ぶ」という原義は現在も保持されていますが、意味するものは時代とともに変化しています。デスポルトは、本来「運び去る、運搬する」の意で、転じて、精神的な次元の移動・転換、やがて「義務からの気分転換、元気の回復」仕事や家事といった「日々の生活から離れる」気晴らしや遊び、楽しみ、休養といった要素を指すといいます。17世紀~18世紀には、sportは新興階級の地主ジェントリー(いわゆる狭義のジェントルマン)の特権的遊びであるキツネ狩り等の狩猟を第一に指しました。しかし、19世紀に入ると「運動競技による人格形成論」が台頭してきます。Sportとは、スポーツ専門組織(競技連盟など)によって整備されたルールに則って運営され、試合結果を記録として比較し、その更新を目的とする運動競技を第一に意味するようになりました。※1 又、競技として行うものはチャンピオンスポーツ、そして遊戯的な要素を持つものをレクレーションスポーツと呼ぶこともあります。最初に競技連盟が成立したのは陸協競技であったため、陸上競技は全ての競技スポーツの第一位とされており、陸上競技場はメインスタジアムと呼ばれています。※2


1896年にアテネで始まった近代的国際オリンピック大会は、古代オリンピック競技の「復興」ではなく、近代の文化的発明品としてのスポーツの為の祭典でした。それは又、スポーツの理想化の進展を示す祭典でもあったといいます。スポーツは今や、家柄や身分によってではなく、個人の能力と業績によって成功することが出来るという近代社会の理想を象徴する活動となりました。勿論、人々の能力や業績は平等な条件のもとで競わなければなりません。人々は自らの意思でこの競争に参加し、自らの責任において様々な決定を下し、自らの力で目標に挑戦する。このように、スポーツは若者の人格形成、集団的連帯感や責任感の養成に大きな役割を果たすものと考えられるようになりました。※3


※1:スポーツの定義、infogogo.comより抜粋
※2:スポーツinfogoto.com 情報の開設、意味、定義、説明記事より
※3:竹内洋・回付優子訳『パブリック・スクールの社会学』(世界思想社、1996年)

近代スポーツの伝播と普及


少々乱暴な言い方かもしれないが、近代スポーツではその起源の多くを、イギリスをはじめとしたヨーロッパに求めることが出来るようです。それらは、もともと子供達の遊戯や祭事に関係したものが大多数でしたが、19世紀から20世紀にかけてイギリスの貴族階級によって今日我々が知るところのスポーツへ制度化、組織化されていったといえます。代表例としては、サッカー、野球、テニス、陸上競技等が近代スポーツの代表としてあげられます。
勿論、スポーツの源流が全てイギリスにあった訳ではありませんが、イギリス以外の異文化のゲームもイギリス人によって近代的なスポーツへと変身したケースが多くあります。ボクシングやレスリングの元になるようなものは世界各地で行われていましたし、ポロの起源は中央アジア、バドミントンはインドから伝えられました。このようなイギリス以外で生まれたものであっても、例外なく西洋文明というフィルターを通って、初めて近代スポーツとしての体裁を整えていきました。

ローカル化


スポーツが世界中に普及し、それぞれの社会に受け入れられるようになると、それぞれの地域において土着化=ローカル化が始まります。スポーツを取り巻く社会的・文化的要因によって、スポーツの楽しみ方やスポーツに関わるいろいろな制度や組織、そして時にはスポーツそのものまでもが大きく変容することもあります。ローカル化は、アメリカの「アメリカン・フットボール」のように、ルールや試合形態をほとんど完璧なまでに変えてしまい、全く異なるスポーツを生み出した例もあります。又、ローカル化に関しては日本の柔道やインド・パキスタンのフィールド・ホッケー、アメリカ・カナダのラクロス等のように、近代スポーツに変容し、世界的なスポーツとなってUターンしたものもあります。いわゆる「ニュー・スポーツ」の誕生になるのですが、このようなスポーツが、発祥の地でどのように受容されているのかも興味深いと言えます。

「ニュー・スポーツ」の定義


「ニュー・スポーツ」とは、考案されたのが比較的新しいスポーツ、外国での歴史は古いが発祥国以外では比較的新しいスポーツ、起源は古いが競技として整備されたのが比較的新しいスポーツ等と定義されているようです。例としては、1930年第にアメリカで誕生し、1996年アトランタ・オリンピックの正式種目となったビーチ・バレー、戦後北海道で考案され、1970年代から高齢者のスポーツとして急速に広まったゲートボール、南アジアで数千年の歴史を持ち、1979年に日本に紹介されたカバディなどがあげられます。※4 また、はるか紀元前277年の中国に起源を持つといわれるドラゴン・ボート競技もその一つと言えるでしょう。
A・グットマンは、現代のスポーツの特徴は、「世俗化」、「競争の機会と条件の平等化」、「役割の専門化」、「合理化」、「官僚的組織化」、「記録万能主義」であると述べています。※5 彼はまずスポーツを身体的、競争的な組織化された遊びと定義します。我々に思い浮かぶスポーツとは、身体を使ってルールに従い楽しく競い合う活動だからです。野球、テニスなど我々が親しんでいる近代スポーツは宗教儀礼として行われている訳ではないので、近代以前のスポーツと違って「世俗化」されているという訳です。又、参加する機会がなるべく広く、競技の条件が全ての競技者において同等であることは近代スポーツの平等精神からくるという「平等化」。他には競技種目やポジションが多様に細分化されて、プロも出現している「役割の専門化」。普遍的なルールが設定され設備も標準化されていることである「合理化」。統括団体が発達していることは「官僚制的組織化」。統計などの数字と統計的な記録が重視される「数量化と記録の追求」を近代スポーツの特徴として挙げています。※6 確かに、我々が企画・運営し、そして参加する様々なスポーツ大会はこのような土壌の上に成り立っていると思われます。


※4:『スポーツと現代アメリカ』清水哲男訳、(TBSブリタニカ、1981)
※5:『スポーツと現代アメリカ』清水哲男訳、(TBSブリタニカ、1981)
※6:平井肇『<ポストモダンのスポーツ>スポーツ文化を学ぶ人の為に』、(世界思想社、1999年)

スポーツ本来のあるべき姿は「遊び」


1938年に出版された「ホモ・ルーデンス」の中で、オランダの文化史家・ヨハン・ホイジンガ―は、人間を何よりもまず「遊ぶ」存在ととらえ、「人間の文化は遊びの中で遊びとして発生し、展開してきた」ことを論じました。彼によれば、文化は「遊びの形式の中で」形成されてきたのであり、芸術にせよ科学にせよ、人間の文化は本来「遊ばれる」ものであるというのです。
しかし、19世紀以降、ほとんど全ての文化領域において「遊びの衰退」が著しくなっていて、スポーツも例外ではありません。19世紀以降のスポーツ制度の発達を見ると、それは競技がだんだん真面目なものとして受け取られる方向に向かっています。規則は次第に厳しく、細かくなる。記録は伸びていき、達成目標は高くなり、プロの競技者とアマチュアの愛好家との分離も明確になります。こうしてスポーツの中から、遊びの自発性、気楽さ、のびやかさが失われ、記録や勝敗へのこだわり、国家や民族への思い入れなども強まり、心のゆとりがなくなってフェアプレーの理想も実現されにくくなり、スポーツは遊びの領域から去っていきました。

スポーツの変容「スポーツ・フォー・オール」の主張と運動


このような近代スポーツに対する批判から業績や勝敗に価値を置く競技スポーツに対して、誰もが生涯にわたって楽しめる穏やかなソフト・スポーツの開発や、フォーク・スポーツの再評価、高齢者やハンディを背負った人々なども含めて万人のスポーツ権を尊重する「スポーツ・フォア・オール」の主張と運動などが盛んになってきました。様々の新しい試みや工夫によってスポーツの中に「遊び」の要素を回復していくこと、或いはそれを新たな形式で組み込んでいくことは、我々のスポーツ文化を豊かにしていくための一つの有力な方向だと思われます。ホイジンガ―流に言うならば、「真の文化は何らかの遊びの内容を持たずには存続していくことは出来ない」※7 ということに尽きると思います。ジェンダー・障害者スポーツ等の視点からスポーツを捉えなおすことは、男性主導で展開してきた近代スポーツを再検討することであり、それはそのまま今後のスポーツの多様化と深く結びついていると思われます。※8


※7:井上俊『スポーツ文化を学ぶ人のために』(世界思想社、1999年)p.13-14
※8:伊藤公雄『<現代スポーツ文化>「スポーツ文化を学ぶ人の為に』(世界思想社、1999年)

現在のマラソンブーム


全国各地で大小様々なマラソン大会が開催され、多くの市民ランナーがカラフルなジョギング・ウェアやジョギング・シューズに身を包みレースを楽しんでいる光景は珍しくなくなりました。このようなジョギング・ブームの背景には、シューズさえあれば時間や場所を選ばずにだれでも気軽に楽しめることや、近年の健康志向などがあるのでしょう。まさに、前述の「スポーツ・フォー・オール」の主張と運動の賜物と言えるかもしれません。
私も数十年前、近所のおじさんに誘われて近くの公園一周2キロのジョギングから始めました。日常の生活から一歩距離を置いて心身のリラックスに結び付けられる手段としてのジョギングにすっかりはまってしまい、5キロ、10キロ、ハーフ、そしてついには国内外の多くのフルマラソンに挑戦するまでにのめり込んでしまいました。仕事の出張時には国内、海外を問わずジョギング・シューズとランニング・ウェアを必ず持参し、ホテル周辺を走り回りました。レース参加時には、フィニッシュまでの苦しさに堪え、なぜひたすらストイックに走ることを追求するのだろうかと自問自答する瞬間、瞬間でもありましたが、タイムはともかく完走した時の達成感は日常では決して味わえない、何事にも代え難い充実した気分にさせてくれるものです。また、大会開催地による地域を挙げての受け入れ準備、走路の景観を眺めながら(実際にはそれほどの余裕はないのですが・・・)の疾走、沿道の人々の暖かい応援、そして地域の美味しい食べ物などなど、走ることで感じられる地域の人々の暖かさやランナー同士のコミュニケーションは、日常生活に戻った際のエネルギー供給源でもあります。県外や海外から訪れるランナーによる地元住民との交流を通じた地域活性化や経済効果も現在のマラソンブームに大きく貢献している要因の一つです。
無理なく、コンディションを保ちながら、健康的に走り続けることが出来れば、マラソンの効果や喜びは計り知れないほど大きいものとなるでしょう。記録や勝敗のこだわりは少し横に置いて、遊びの領域で日常的にジョギングやマラソンを楽しむことは自分の人生をより豊かにしてくれると確信します。

日本のマラソン大会・関西のマラソン大会

2020年12月8日
一般社団法人 関西マラソン協会
谷 達也

【日本のマラソンの歴史】


日本では、長距離走について、記録が残っているのは、江戸時代中期1759(宝歴9)年に「遠走」(えんそう)という言葉で、伊予・宇和島藩(現愛媛県・宇和島市)の5大藩主・伊達村候(だて むらとき)が、宇和島城下から上畑地村(現・宇和島市)まで18キロを家来に走らせ、2日後には、東多田番所(現・西予市)までの28キロを「遠走」させた(日経新聞2017年11月24日付け)が、2回とも下級武士の梶谷左佐景春(かじたにさすけ かげはる)の走りが見事で、木綿を3反与えたという。


一方、「マラソン」という名称で日本で最初に大会が開催されたのは今から100年以上前の1909(明治42)年3月21日に、「マラソン大競走」という名称で神戸の湊川の埋め立て地から大阪淀川・西成大橋までの31.7キロコースで行われたのが初めてあった。当時、岡山県出身の在郷軍人の綾木長之助(のち金子長之助)が旧国道2号線を芦屋市の業平橋あたりからスパート、独走状態となり2位に5分以上の差を広げて、2時間10分54秒で優勝、賞金300円の大金を手にしたのが最初で、これが新聞で報道されると見合い話が殺到したとされている。

それから約10年後、日本独自の「駅伝」種目は、1917(大正6)年に読売新聞が企画し、当時の大阪市立大学の学長、武田千代三郎が命名した「東海道駅伝徒歩競走」が、京都三条大橋から東京・不忍の池の間を全関西軍と全関東軍に分かれて開催され、これが「駅伝」の始まりとされている。

また、3年後の1920(大正9)年2月には、現在の「箱根駅伝」の始まりとなる関東の大学駅伝大会「東京箱根間往復大学駅伝競走」が、1912年第5回ストックホルム五輪マラソンに日本人として初参加し〝日本のマラソンの父〟と呼ばれた金栗四三(しそう)氏の発案で、五輪強化策の一環として開催された。

しかし、実際に「42.195キロ」のフルマラソンの距離で開催された大会は、30年後の1946年第二次大戦終戦直後の昭和21年10月20日に、毎日新聞社が大阪で始めた「全日本毎日マラソン」が、「日本最古のマラソン」とされている。

コースは、現在の大阪・難波別院跡地にあった毎日運動場を発着し、御堂筋から十三大橋を超えて、現在のJR川西池田駅で折り返す往復コースで、第1回大会は、福岡県の実業団選手で三井山野炭鉱から参加した古賀新三選手が2時間44分57秒で優勝している。

また、2年後の1948年、全日本実業団駅伝が創設される前年には、「実業団」の国内初の駅伝大会、「大阪実業団駅伝競走」が「全日本駅伝競走」に先駆けて関西の地で誕生。

住友金属初代社長の春日弘氏の発案で「戦争で疲弊した大阪の会社を活気づけるため」にと企業対抗の大会を産経新聞の前身である大阪新聞と大阪実業団体育協会の主催で実施、コースは、大阪・岸和田市役所をスタートし、2号線の曽根崎から産経新聞社前をゴールとする31キロのワンウエイコースで、6区間に16チームが参加し、大阪ガスが1時間54分10秒で第1回大会の優勝を遂げた。

この様に戦前から戦後直後の所謂、草創期の日本の「マラソン」や「駅伝」大会は、実業団や大学生などの所謂エリートに特化して開催され、地域的には、東京と大阪の2大都市がその中核を担っていた。

そんな日本のマラソンの歴史も、昭和30年代の高度経済成長期に入り、都心部を中心に開催されていた大会を取り巻く環境が一変する。

特に都市部では、東京五輪開催に伴うや東京―大阪間の高速道路の整備など急速な車社会の到来で、公道を走るマラソン大会が次々と姿を消すこととなり、関西のマラソン文化は一気に衰退の道を辿る。

1962(昭和37)年、「最古」のフルマラソン大会であった「全日本毎日マラソン」は、会場を大阪から東京、東京から滋賀へと移転を余儀なくされた。大阪を南北に縦断する「大阪実業団駅伝競走」もその5年後の1967(昭和42)年に長居公園内を周回する単調なコースに変更を強いられ、大阪の名物マラソン大会は消滅して行ったのである。

この状況は、1982年に大阪女子マラソン(現在の大阪国際女子マラソン)が創設されるまで20年間も続き、大阪は、マラソン大会「不毛の時代」を迎えることとなったのである。

そんな暗黒の状況を一変させる事態が海外からやって来る。
米国の「ウーマンリブ運動」の急速な社会進出と台頭に端を発したマラソン大会への参戦、「女性マラソンブーム」である。

1960年代後半から1972年頃にかけて、欧米社会では女性たちが男女同権、男女平等をあらゆる分野で叫ぶウーマンリブ運動が活発化。その波は政治から社会生活、そしてスポーツ界へと波及。1960年代になると、「女性には不向き」とされていたフルマラソン種目だが、欧米のマラソン大会を中心に女性ランナーが続々と参加、挑戦する事態が発生する。

1966年、世界最古の伝統を持つマラソン大会「ボストンマラソン」(1897年に創設)には女性ランナーのロベルタ・ギブ女史が男性に紛れて初参加し、3時間21分40秒で完走。1970年には、日系女性ランナーのゴーマン美智子氏が、米国・ロサンゼルスで開催された男性だけのウルトラマラソン、「屋内100マイルレース」(160km)に挑戦し、21時間4分で見事完走し、女性の台頭を決定付けた。
「女性が長距離を走ることは生理的に無理」との過去の常識が覆された出来事であった。

このような状況を背景に、1972年には、遂に女性が参加を解禁されることとなり、その流れは、欧米から世界へ、世界から日本に到来することとなる。

1979年、日本でもIAAF(International Association of Athletics Federations)の公認大会として女性だけが参加できる女性だけのエリートマラソン、「東京国際女子マラソン」を国内で先駆けて朝日新聞が開催することとなる。その模様は日本全国でテレビ中継され大きな話題となるとともに、日本のマラソン界にも「女子マラソン」の新たなブームの火付け役となった。
1984年にはIAAFが米国で開催したロサンゼルス五輪で女子マラソンが正式種目として採用、初代女王には2時間24分52秒で、米国のジョーン・ベノイトが輝き「女性でもこれだけ走れるんです」とインタビューに答えた。

その影響を受け、関西の大阪の産経新聞社でも、「女子マラソンをぜひ大阪で!」との声が社内の伊藤写真報道記者など中堅・若手記者から沸き起こった。

しかし当時、大阪は交通増加の問題から20年近くエリートマラソンが開催されていなかった。その実現には、多くのハードルを越えなければならなかった。
具体的には、交通に最小限となるコースの選定問題や、海外からのエリート選手の招聘問題、また莫大な大会運営資金を補てんするスポンサーの獲得問題など多くの課題が散在した。

この難局を乗り切ったのが、産経新聞事業局の上田竜三氏とサンケイスポーツの結城肇氏の2人の曲者達であった。
コース選定では、大阪城公園をコースに取り入れ御堂筋側道を折り返すコースを策定、海外選手の招聘にも成功し、1981年1月の当日は、コース沿道の観客100万人、テレビ視聴率40%超えの脅威の記録を達成する大成功をおさめた。

(※残念ながら第1回大会では、国際大会に不可欠な日本陸連からの「共催」の名義を得られなかったため、「大阪女子マラソン」として、1982年1月にスタートが切られた。また、当日は、イタリアのリタ・マルキシオ選手が優勝する「番狂わせ」で、通訳が不在の中、選手インタビューは、通訳のアドリブで行われた)

東京と大阪女子マラソンの成功は「女子マラソン」人気を更に押し進め、その派手なコスチュームと日本人選手の活躍などもあり、日本国内は空前のマラソンブームを迎えるのであった。
しかし、一面では1984年の米国・ロス五輪以降税金を使わず、徹底的な商業主義が大成功をおさめて以来、あらゆるスポーツが、「ビジネスの対象」として捉えられる様になって行った。

サッカーや水泳、陸上、アメフトなどの様に、「テレビ映え」する「劇場型スポーツ」は、盛んにもてはやされた。エリートマラソンは、体中派手なコスチュームでナンバーカードは勿論のこと、ウエアーからシューズまでスポンサー一色となっていった。

「視聴率が取れるスポーツ」。
この命題が、スポーツ大会を実施する場合の大前提となり、企業広告が全面的に露出できるスタジアム型スポーツの人気が急上昇する中、コマーシャル性の少ないスポーツは、マイナースポーツとして隅に追いやられる事態となり、「スポーツは楽しむこと」という本来の主旨から遠のいて「勝つこと」や「勝負のドラマ性があること」が第1義的となって行った。
 市民マラソンもまた「収益性」や「観光」が全面に押し出され、イベント性が重んじられるようになったのである。

【市民マラソンブームとチャリティ大会】


1980年代、国内のマラソンブームは、エリートマラソンから始まり、その波は一般市民にも波及し、全国各地で市民マラソン大会が地方の活性化や観光事業として数多く開催されるようになった。いわゆる「第一次市民マラソンブーム」の到来である。

全国規模の市民大会としては、1967年に東京都青梅市と報知新聞の主催で行われた30キロの「青梅マラソン」がその草分け的存在であるが、関西圏では1981年に兵庫県下で篠山市と朝日放送・朝日新聞の主催で行われた1万人規模のフルマラソン大会「篠山マラソン」がその草創期の大会と言える。

大阪府下では、戦後の1950年に富田林市政施行を記念し第1回富田林市民マラソンが「市民マラソン」として初めて創設、1954年秋には、同じく河内長野市の市政施行を記念し河内長野シティマラソンが開催された。都市型の公道を全面的に利用した大会として認知されたのは、1972年、堺市が主催した「堺市民マラソン」。1981年から開催された「堺シティマラソン」、1982年秋に大阪女子マラソンの併設イベントとして2500人が参加した「千里シティマラソン」などが草創期の市民マラソン大会として位置づけられる。

兵庫県下では、篠山マラソンが先陣を切ったが、兵庫県の南部の阪神間では、大阪女子マラソンのディレクタ―だった結城肇氏が、阪神タイガースの完全中継を実現させたサンテレビジョンの名プロデューサー、富岡敬次郎氏と二人三脚で1984年の芦屋市を皮切りに、尼崎市、西宮市、神戸市、で1988年まで阪神間初の公道を使用した大会を実現して行った。

これらの阪神間の大会は現在では「ユニセフカップマラソン」としてランナー達に親しまれているが、その初回となる芦屋市民マラソンの創設は、富岡氏がスポンサー担当として神戸市に本社があった食品流通大手の「ダイエー」を獲得。結城氏は、元三池炭鉱労組委員の自治会会長北村氏のもと地元住民と芦屋警察を説得、1984年秋に阪神間で初の都市型市民マラソン大会、「芦屋国際市民マラソン」を阪神間で初めて実現するなど苦難の道のりであった。

これら4大会は、スポンサーの名前にちなんで「オレンジカップ」、「ダイエーカップ」と名づけられ、ダイエーの企業カラーのオレンジ色で会場すべてを埋め尽くし、その模様はサンテレビで日曜日午後7時のゴールデンタイムに1時間番組として放映され、阪神間にも市民マラソンブームが湧き起った。

しかし、そんな全国的に拡大する市民マラソン大会に「待った」がかかる。1985年、警察庁から突然通達された「スクラップ&ビルド」の大原則である。

新規大会を新たに開催するには、同規模の大会を近隣でスクラップ(潰す)しないとビルド(創設)できないという通達で、また道路を使用する大会には「企業の冠を入れてはならない」と指示が全国に出され、公道を企業色で染める市民マラソン大会は国からの「規制」が強化された。

当時ダイエーカップマラソンという名称で開催されていた阪神間の大会も、この通達の影響を受け、1986年にはユニセフ(国連児童基金)が提唱するアフリカ児童救済のチャリティイベント「スポーツ・エイド」に日本で唯一西宮市が参加したのを機に、他の3大会も参加料の一部を送る「ユニセフカップマラソン」と名称を変更して行った。

一方で、チャリティマラソンを推進してきたサンケイスポーツは、そのチャリティマラソン路線の集大成として国内からアジアにもチャリティの文化を広げていった。
1995年、日本陸連が協力、国際マラソン協会(AIMS)が公認し、カンボジアの戦火で足を失った人たちに義足を送ることを大会テーマに世界遺産のアンコールワット群を周回する「アンコールワット国際ハーフマラソン」の誕生であった。

誕生の前年、1994年、ユニセフカップマラソンが50回目を迎えていたサンケイスポーツは、スポンサーのダイエーの協賛を継続的に繋ぐ策として、ユニセフに続く、第二弾のチャリティの路線を模索していたが、たまたま産経新聞社会部の北村記者から兵庫県リハビリテーションセンター所長の沢村誠氏がアジア医師装具センター構想の実現を考えていることを知り、これを全国に展開しておくことを決定。当時、岐阜県に本部があった全国市民マラソン連絡協議会と一体となって、大会参加ランナー1人から100円の募金を送るキャンペーンを開始した。

このキャンペーンには、フォークシンガーでトライアスリートの高石ともやさんが参加し、東京築地から兵庫県赤穂市で寄付金を募りながら走る「義肢ラン」などを開催、新聞各紙、ラジオも取り上げる中、この100円募金キャンペーンは大成功を収めることとなった。そして、翌年の1995年、沢村所長の秘書の高光氏から「カンボジア政府がマラソン大会を平和の象徴としてやってほしい」との別企画の話が舞い込んだ。

当時、1993年は殺戮を繰り返していたポルポト政権はすでに収束状態に近かったが、同年、日本から文民警察官として参加していた高田警部補が殉職する事態が発生するなどまだまだ緊張状態が残る中、サンケイスポーツ事業部の現場からは、「マラソンを実施するにはあまりのも危険ではないか」という懐疑的な声が相次いだ。

これに対してサンスポ幹部からは、取り敢えず安全確認も含めて現地調査することとなり、事業部から3人の部員たちが選ばれた。まだ多くの地雷が埋まり、時には銃弾が飛ぶもしれない中を、当時のラナリット首相の甥のジープに乗車し、うだるような中を現地調査。 カンボジアオリンピック委員会代表やカンボジア陸上競技協会会長と面会。更にシェムリアップ州知事とも面会、全面的な安全を確保することを約束された結果、雨季が明ける12月に大会は開催されることが決定した。

しかし、大会までは1年を切り、関西では未曾有の阪神淡路大震災が起こるなど市民マラソン大会は、一気に冷え込み、参加者が減少。震災前から参加者が半減する大会が続出する中でカンボジアマラソンを開催した。日本国内の新聞社やマスコミはこのニュースを大きく取り上げるなどカンボジア初のチャリティ市民マラソンは大成功を収めるとともに、初回のゲストランナーとして参加したバルセロナ五輪メダリストの有森裕子氏とマラソンランナーのロレン・モラー氏がカンボジアの対人地雷被害者のサポートを応援するNGOハート・オブ・ゴールドを設立。以後、ハート・オブ・ゴールドが約20年間近くにわたり大会を主催、欧米では定着している「チャリティマラソン」をアジアでも定着させることに成功した。

以後、日本国内では、ご存じの通り、東京都の石原都知事が中心となり、2007年に日本初の3万人の参加者を超える大規模都市型マラソン、「東京マラソン」が誕生。
その影響を受けて国内でも京都、大阪、神戸など全国各地で大規模都市型マラソンが誕生し、空前の市民マラソンブーム、「第二次市民マラソンブーム」が到来している。

最後に、近年の日本国内のマラソン大会の傾向を分析すると、マラソンビジネスに特化した「商業主義」や行政による観光集客が大会の主流になっている。
特に大学や実業団が力を入れる日本独自の種目である「駅伝」大会は、テレビの視聴率が高い種目として、マスコミが大きく取り上げ人気が年々上昇しているが、その反面、エリート選手たちは「全国高校駅伝」や「「箱根駅伝」、「ニューイアー駅伝」などが最終目標になってしまい、時間をかけて育てていくフルマラソンを目指す選手は大幅に減少。マラソン日本で名声を博した過去の五輪メダルを狙うことが難しくなっている。

その様な商業主義や観光集客のみを柱とした大会運営は、スポンサーの撤退や参加料収入の減少、行政の財政緊縮など様々の要因で運営資金が不足した時、簡単に大会を「中止」することが懸念される。
「あらゆるスポーツの基本はランニング」でありマラソン大会の開催はその礎を築くものである。
マラソンブームが一過性のものにならないためにも、大会を運営する人たちは、マラソン文化を支えるという信念と気概、そしてスポンサーからのサポートだけでなく、国や行政からの助成も財政基盤として考慮することが求められる。
1992年、「マラソンの父」と呼ばれた世界三大マラソンの一つニューヨークマラソンの創設者のフレッド・リボー氏と福岡ユニバーシアードでお会いした時に、「マラソン運営者に一番大切なことは?」と尋ねた。
その時に彼が残した言葉は、「SINCERITY」(誠実)。
今、マラソン運営者に求められているのは、「マラソン文化を次代に引き継いで行こう!という「誠実さ」なのかもしれない。

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